魂のランナー 54歳からの再挑戦
車いす陸上選手 伊藤智也
最高のチームで再び目指す世界の頂点
パラリンピック北京大会で2つの金メダルを獲得、ロンドン大会でも3つの銀メダルに輝いた伊藤智也選手。いったん競技生活から退いたが、5年間のブランクを経て、2017年夏に現役復帰を宣言。2018年2月からはバイエルの社員として、2020年東京大会に向けて厳しいトレーニングを重ねている。
「専用のマシンをつくるから」と誘われて
――現役復帰はいつ決断したのですか?
伊藤:きっかけは2016年10月にスイスのチューリッヒで開かれたサイバスロン世界大会でした。私は和歌山大でロボット工学を研究している中嶋秀朗教授が開発したRT-Moverという電動車椅子の操縦者として出場したのですが、この会場でRDS社の杉原専務から声を掛けられたんです。初対面でしたがRDS社のことは知っていました。福祉から自動車レース、宇宙まで多彩な分野で先端的な製品の研究開発や製作を行っている会社です。今年のパラリンピック冬季大会で活躍した村岡桃佳さん、森井大樹さんのチェアスキーの開発も手掛けています。杉原さんが「伊藤さん、うちでマシンをつくります。もう一度走りませんか?」とおっしゃるんです。びっくりしました。なにしろ私はロンドン大会以来、まったく走っていません。トレーニングもしていない。レースをする体が取り戻せるかどうか自信がありませんでした。帰国後も杉原さんとお話しをして、3カ月間トレーニングをして、もう一度スタートラインに着けそうならやってみようと思いました。自分の体にフィットしたマシンを最先端の技術を駆使してつくってくれるなんて、夢のような話ですからね。
――トレーニングを再開していかがでしたか?
伊藤:ひどかった(笑)。100m進むのに40秒くらいかかりました。レースのタイムの倍です。しかしトレーニングを重ねていくうちに2017年の春頃にはだいぶ走れるようになって、これならいけそうだと思いました。
社員としての緊張感を持ちながら
――2018年2月にバイエルに入社されました。社員として活動するのは初めてですね?
伊藤:はい。プロのアスリートとして活動する場合、道は2つあります。ひとつは、企業にスポンサーになっていただくこと。もうひとつは社員として雇用されることです。ロンドン大会までは「プロアスリート」ということにこだわりがあって、特定の企業に所属するというより、スポンサーになっていただくという道を考えていました。しかし、いったんレースから離れたこともあって、今は応援していただけるなら、と素直に思えるようになりました。むしろ社員という立場に魅力を感じています。スポンサーになっていただく場合と異なり、社員としての稼働時間をトレーニングに充てて自分を律することが求められるし、緊張感もある。企業活動を通してお給料をいただいているという自覚も生まれ、絶対に無駄にしてはいけない、という気持ちが強くなりました。私たちアスリートは基礎トレーニングを欠かさない日はないのですが、社員になって週末の休日がちょっとうれしく新鮮です(笑)。
パラスポーツは人とマシン一体の戦い
――マシンの製作も進んでいるんですね。
伊藤:オールカーボン製で細部まで私の体と一体になるものです。ここまで徹底したオーダーメイドマシンの製作は世界でも初めてだと思います。
――自動車のF1レースのような感じですね。最高のマシンをドライバーが巧みに操り、総合力で最高のパフォーマンスを発揮する。
伊藤:マシンを使うパラスポーツは、そういう面があると思います。私の感覚では人が3、マシンが7というくらいの比率です。そのくらいマシンの存在は大きい。健常者の陸上競技とは違うんです。F1レースでも、レースのために開発されたさまざまな技術や機能が一般車にフィードバックされて安全性の向上に貢献する。車椅子も同じなんです。パラスポーツで機械を否定したら車椅子の開発スピードが落ちる。今度の開発でも、私が自分のスタイルに固執して開発側から出されてくるものを乗りにくいと否定したら進歩が止まります。私がマシンに体を寄せていくというアプローチが必要なんです。そういう意味でも、今回の取り組みは今までとはまったく違うもので、自分にとっても新たなチャレンジだと思っています。
アジア大会、さらに来年の世界選手権をステップに
――2020年の東京大会に向けて、どんなスケジュールを想定していますか?
伊藤:今年の7月に関東パラ陸上競技選手権大会、10月にインドネシア・ジャカルタで開かれるアジアパラ競技大会があります。これに出場することが当面の目標です。そこで成績を残して来年の世界選手権につなげていきたいと思っています。並行して、マシンの完成度をどんどん高めていきます。2020年東京大会では、100m、400m、1500mが正式種目に決まりました。400mは間違いなくエントリーしますが、100mはパワー、1500mは持久力の勝負で、対照的な種目です。練習方法もまったく異なるので、どちらに寄せていくかを探っていきながら、練習メニューもそれに合わせて変えていくつもりです。私は間もなく55歳で東京大会のときは57歳になります。体は年を取ったけれど、学んだことも多い。メンタル面はかつてなく充実しています。残り2年間、しっかりと歩みを進めていきたいと思っています。
メダルへ、そのストーリーを大切にしながら
再びトラックに戻ってきた伊藤選手。そもそも伊藤選手の車椅子陸上との出合いは何がきっかけだったのか、そして今、2020年東京大会に向けどんな準備をしているのか、車椅子陸上を中心に今の過ごし方を聞いた。
きっかけは間違えて注文したレース用車椅子
――車椅子陸上とはどのようにして出合われたのですか?
伊藤:私が「多発性硬化症」を発症したのは1998年、34歳のときです。なんだか体が重いので診てもらおうと思って病院に行きました。検査をすると「歩いているのが不思議」と言われるほど重篤だと分かり、そのまま入院。1週間後には、耳以外、全身の機能を失いました。その状態が何カ月か続き、だんだん回復してきた。目が見えるようになり、声が出るようになり、手が動くようになりました。下半身は動かないままで、左目の視力も戻りませんでしたが、他の部分が回復してきたので、病気の苦しみの中でも回復していく喜びがありました。車椅子陸上との出合いは、入院中に車椅子を間違えて注文したという冗談のような話からなんです。
――間違えた?
伊藤:はい。入院して1年ほどしたときに、車椅子を注文することにしました。そのとき、カタログを見せてくれた業者さんがいたんですが、彼も車椅子には詳しくなかったんです。私は「最近の車椅子ってこんなにかっこいいのか」と感心してしまって、中でも一番気に入った3輪のものを注文したんです。間もなく車椅子が着いて運んできた人が説明してくれる。乗り方を聞いているうちに、レース用の特別なものだと分かりました。でも遠方からわざわざ来てくれた。普通の車椅子と合わせて、その車椅子も買うことにしました。もし運ばれてきたのがバスケットボール用の車椅子だったら、バスケットをやっていたかもしれません。もともと、マラソン、野球、ゴルフ、水泳といろいろなことをやっていたので、スポーツにはなじみがありました。せっかくだからこの車椅子で走ってみようと思ったんです。
初挑戦のハーフマラソンで最下位に
――厳しいトレーニングを積まれたそうですね。
伊藤:最初に長良川の河川敷を走るハーフマラソン大会に出ました。みんな1時間くらいでゴールする。私は2時間41分でビリでした。ホイールの回し方も知らなかったんです。でも、戦う目標ができました。医師には猛反対されたけれど、それから毎日、2時間の筋トレ、60kmの走り込みを続けました。トレーニングを始めて3年目くらいからようやくレースで上位に入ることができるようになりました。
――現在はどんなメニューでトレーニングをしているのですか?
伊藤:朝9時に勤怠管理のためのメールを会社に送って、夕方5時半までトレーニングをしています。午前中はトラックで走り、午後は筋トレに充てることが多いですね。以前は3時間ほどにぎゅっと凝縮してトレーニングをしていたんですが、今は一つ一つのメニューの間の時間を長くとっています。これが想像以上に効果的で、代謝が良くなり、筋肉も大きくなっています。筋トレは腕と肩の周りの筋肉を一つ一つ意識しながら鍛えます。週に1回から2回は医師のメディカルチェックを受け、乳酸の状態を見てトレーニングの強度を変えたり、一週間単位でトレーニングのテーマを決めたりしています。医師との共同作業も今までにないことで、トレーニング環境は非常に充実しています。
世界でも例のないマシン開発
――マシン開発はどんな状況ですか?
伊藤:毎月1回は埼玉の開発現場に出掛けて、マシンを走らせるときの私の体の使い方について細かい測定や分析を進めています。パラスポーツを健常者のスポーツ競技の延長として考える人が多いかもしれませんが、車椅子陸上競技はマシン探究が課題。グローブも素材から見直し、私の手になじみ、かつ空気抵抗を最小限に抑えるものを開発しています。私のポジションはもちろん、マシンの微妙な“しなり”まで設計に反映させながらマシン開発を進めていますが、それは単純に私に合わせたものではありません。例えばこのポジションなら1000分の2%空気抵抗が減るということが理論上分かれば、それに近づいてほしいというリクエストがあります。つまり、私がマシンにふさわしいポジションを取り、その力を引き出す体をつくらないといけないということです。出来上がったマシンで想定したスピードが出なかったら、悪いのは私なんです。今までは人中心、私中心のマシンづくりでした。今回は、私のことは二の次。「エンジンとしてしっかりホイールを回してね」という感じなんです(笑)。
メダルは自分だけのものではない
――東京大会の目標はやはり金メダルですか?
伊藤:走る以上はそうですね。ただ、ロンドンまでは自分が走って勝つ、という気持ちが強かったけれど、2020年東京大会に向けては、ただメダルが取れたらいいというのではなくて、そこまでのプロセスやストーリーを大切にしなければいけないと感じています。バイエル社員として戦うわけですし、マシン開発に心血を注いでくれるチームも存在する。医師もしっかり伴走してくれていますからね。
――バイエルも同僚の伊藤選手をみんなで応援しています。
伊藤:ありがとうございます。メダルが取れたら会社に報告に行きますね。皆さんからの応援が励みになります。実は私は手元に一つもメダルがありません。お世話になった方や、講演会を聞いてくれた子どもたちにジャンケン大会の景品なんかで差し上げました。私には大会記録が残ればいい。メダルは結果にすぎませんし、メダルを取ることでみんなに喜んでもらえたら、それが一番うれしいんです。
PROFILE // 伊藤智也
1963年、三重県生まれ。従業員200人を超える人材派遣会社を経営していたが、1998年に多発性硬化症を発症し車椅子生活に。翌年から車椅子陸上競技を開始し、数々の記録を樹立。2005年に障がい者で唯一、ギリシャのマラソン博物館殿堂入りを果たした。2008年の北京では400m、800m共に世界記録で金メダルを獲得、2012年ロンドンでは200m、400m、800mで銀メダルを獲得したのち、引退。2017年夏、現役選手として復帰。2018年2月、バイエル薬品株式会社入社。